かつてゆとり教育という教育論とシステムが物議をかもした時代がありました。ゆとり教育は近年の偏重した詰め込み教育に対する反省から生まれましたが、結局は大きな混乱を教育現場にもたらしました。詰め込み教育に対する反省とは言葉を変えればアンチテーゼ(ある理論・主張 を否定するために提出される反対の理論・主張)とも言えます。アンチテーゼにおいて重要なこと は、何かの価値観を否定した後に新しい価値観を明確にすることだと思います。この新しい価値観の創出ということができなければ、アンチテーゼは混乱をもたらすだけです。ゆとり教育には 「子供たちは何のために勉強するのか?」といった根本的な視点が欠けていたように思えます。 ただ、詰め込み教育を否定しただけでは、説得力に欠けると感じるのは私だけでしょうか?もちろんそれだけではないのでしょうが、どうも教育としての哲学が感じられないのです。
いや、そもそも「人は何のために勉強するのか?」という根本的な問題でさえ今までの日本で は一部の知識人と一部の熱心な先生が論じてきただけで、たいして論じられてこなかったのではないでしょうか?私たちの日常では多くのエネルギーが日々の生活に費やされ、そのような問題を深く論じるという機会も少なかったのではないかと思います。日本という国は長い歴史を持ち、 経済的には世界第三位という輝かしい地位にありながらも、必ずしも世界から十分にそれが評価されているとは言いがたいのが現状です。日本が文化的にも政治的にももっと成熟していくには教育の役割 がこれからも大きくクローズアップされてくるでしょう。 ギリシャ時代から学問、教育に長い歴史を持つヨーロッパでは、教育に体系的な哲学が根づ いています。そしてその反面、非常に個性的で多様な教育を行っている学校も多くみうけられま す。二千数百年にわたり、偉大な哲学者を輩出してきたヨーロッパの底力を教育においても感じ ることができます。残念ながらこの方面での哲学の深まりにおいては日本は劣っていると思いま す。しかし、ゆとり教育の導入から端を発したこの混乱を通じて現在の教育が持ついくつかの大 きな問題点が明確になったことは、皮肉ではありますがゆとり教育の功績と言えないこともありま せん。ここで発想を転換させて欲しいと思います。そもそも「人は何のために勉強するのか?」という 重大な問題は文部科学省や学校に任せておけばいいというようなことではなく、私たち自身が一 番考えなくてはならない大きな問いなのです。今までにたいした議論がなかったからこそぎゃくにみなが自由な立場で一から論じることができるのです。それは教育というものの本当の意味をあらため て私たちが自身の一部に取り込んでいくという作業でもあります。私たちにはそのようなチャン スがあるのです。これらの諸問題と向き合いながら、西小山の学習塾という地域コミュニティーとしての役割を果 たしていく所存です。